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花森安治 |
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「戦場」 一銭五厘の旗」(暮しの手帖版)より |
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〈戦場〉は いつでも 海の向うにあった 海の向うの ずっととおい 手のとどかないところにあった 学校で習った地図を ひろげてみても 心のなかの〈戦場〉は いつでも それよりもっととおくの 海の向うにあった ここは 〈戦場〉ではなかった ここでは みんな 〈じぶんの家〉で暮していた すこしの豆粕と大豆と どんぐりの粉を食べ 垢だらけのモンペを着て 夜が明けると 血眼になって働きまわり 日が暮れると そのまま眠った ここは 〈戦場〉ではなかった 海の向うの 心のなかの〈戦場〉では 泥水と 疲労と 炎天と 飢餓と 死と そのなかを 砲弾が 銃弾が 爆弾が つんざき 唸り 炸裂していた 〈戦場〉と ここの間に 海があった 兵隊たちは 死ななければ その〈海〉をこえて ここへは 帰ってこられなかった いま その〈海〉をひきさいて 数百数千の爆撃機が ここの上空に 殺到している 夜が明けた ここは どこか わからない 見わたすかぎり 瓦礫がつづき ところどころ 余燼が 白く煙を上げて くすぶっている 異様な 吐き気のする臭いが 立ちこめている うだるような風が ゆるく 吹いていた しかし ここは 〈戦場〉ではなかった この風景は 単なる〈焼け跡〉にすぎなかった ここで死んでいる人たちを だれも 〈戦死者〉とは呼ばなかった この気だるい風景のなかを動いている人たちは 正式には 単に〈罹災者〉であった それだけであった はだしである 負われている子もふくめて この6人が 6人とも はだしであり 6人が6人とも こどもである おそらく 兄妹であろう 父親は 出征中だろうか 母親は 逃げおくれたのだろうか 持てるだけの物を持ち 6人が寄りそって 一言もいわないで だまって 焼けた舗道を 歩いてゆく どこからきて どこへゆくのか だれも知らないし だれも知ろうとしない しかし ここは〈戦場〉ではない ありふれた〈焼け跡〉の ありふれた風景の 一つにすぎないのである あの音を どれだけ 聞いたろう どれだけ聞いていも 聞くたびに 背筋が きいんとなった 6秒吹鳴 3秒休止 6秒吹鳴 3秒休止 それの10回くりかえし 空襲警報発令 あの夜にかぎって 空襲警報が鳴らなかった 敵が第一弾を投下して 7分も経って 空襲警報が鳴ったとき 東京の下町は もう まわりが ぐるっと 燃え上がっていた まず まわりを焼いて 脱出口をふさいで それから その中を 碁盤目に 一つずつ 焼いていった 1平方メートル当り すくなくとも3発以上 という焼夷弾 〈みなごろしの爆撃〉 3月10日午前0時8分から 午前2時37分まで 149分間に 死者8万8千7百93名 負傷者11万3千62名 この数字は 広島長崎を上まわる これでも ここを 単に〈焼け跡〉 とよんでよいのか ここで死に ここで傷つき 家を焼かれた人たちを ただ〈罹災者〉で 片づけてよいのか ここが みんなの町が 〈戦場〉だった こここそ 今度の戦争で もっとも凄惨苛烈な 〈戦場〉だった とにかく 生きていた 生きているということは 呼吸をしている ということだった それでも とにかく 生きていた どこもかしこも 白茶けていた 生きていた とはおもっても 生きていたのが幸せか 死んだほうが幸せか よくわからなかった 気がついたら 男の下駄を はいていた その下駄のひととは あの焔のなかで はぐれたままであった 朝から その人を探して 歩きまわった たくさんの人が 死んでいた 誰が誰やら 男と女の 区別さえ つかなかった それでも 見てあるいた 生きていてほしい とおもった しかし じぶんは どうして生きていけばよいのか わからなかった どこかで 乾パンをくれるということを 聞いた とりあえず そのほうへ 歩いていってみようと おもった 気がついたら ゆうべから なに一つ口に入れて いなかった 入れようにも なにもなかった いま考えると この〈戦場〉で死んだ人の遺族に 国家が補償したのは その乾パン一包みだけだったような 気がする お父さん 少年が そう叫んで 号泣した あちらからこちらから 嗚咽の声が洩れた 戦争の終わった日 8月15日 靖国神社の境内 海の向うの〈戦場〉で死んだ 父の 夫の 息子の 兄弟の その死が なんの意味もなかった そのおもいが 胸のうちをかきむしり 号泣となって 噴き上げた しかし ここの この〈戦場〉で 死んでいった人たち その死については どこに向って 泣けばよいのか その日 日本列島は 晴れであった (96号 1968《昭和43》年8月) |
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