父と暮せば 広島市民劇場交流会
    
2015年07月11日     
山と橋を渡る  Masao's Photo Gallery


神戸演劇鑑賞会の7月例会は
井上ひさし作、鵜山仁演出による
「父と暮せば」です。
芝居の理解を深めるために
担当サークルの有志7名で
広島に行ってきました。




学生時代の友人、地元劇団「月曜会」の元役者T君が
広島駅まで迎えに来てくれていて
関西ではなくなってしまった
路面電車に乗って広島市民劇場に

市民劇場では事務局長、前事務局長、前々事務局長、
安佐南事務局長さん達

広島弁についてのお話
広島弁は幾つかあって本物は???
西の広島弁
東の広島弁
島根県境の広島弁 
えとせとら
方言指導の大原穣子(大阪府出身)さんの広島弁は東の方面?
リーデイングで私たちの広島弁は関西風だとか
イントネーションが微妙に違うのですね。


市民劇場でのリーデイング


      美津江    おとったん、こわーい!
      竹 造     こっちじゃ、こっち。美津江、はようとだなれへきんちゃい。
               なにゆーしとるんね、はよう座布団かぶって下へ隠れんさい。
      美津江     おとったん、やっぱあ居ってですか。
      竹 造     そりゃ居るわい。おまいが居りんさいいうたら、どこじゃろと
               いつじゃろと、わしは居るんじゃけぇのう。
               居らんでどうすりんじゃ
      美津江     じゃけんど、こげぇド拍子もなー話があってええんじゃろうか。
               こげぇ思いも染めん話が・・・
      竹  造     なにをくどりくどりいうとる。はようこっちへ・・・(閃光に)
               ほら、きよったが! 
      美津江     (押し入れに入り込みながら)・・・おとったん!


     
こんなふうにリーデイングは始まりました。
一場を広島市民劇場の皆さんと神戸演鑑賞会でまわり
最後は大原穣子さんの
広島弁による
日本国憲法第九条を(戦争の放棄)
戦争を絶対にせんいう誓いを
広島市民劇場の亀岡さんい読んでもらいました。


          わたしらー にほんこくみんは
           りにかなうたことを でゃーじにしてくらせる
          よのなかをつくることを こころからねごうとります。
          ほいじゃけぇ そのために、せんそうをせんいう
           三つのやくそくをきめたんです。

          ひとつは いませかいではあいてに
           「これからせんそうをはじめるどォ」いうてからなら
           せんそうをしてもええことになっとりますけど
           わたしらあそういうこたあ みとめません

          ふたつめは じぶんのくにのいうことを
           あいてのくにが いうことをきかんいうて 
           「おどりゃー いうことォきかにゃー
           げんばくをおとしてこますどォ」いうて
           おどかすようなこともしません

          みっつめは くにとくにどうしが いけんがあわんかったり
           くだくだ・くだくだ もめごとを おこしょうても
           それをええがいにまとめるのに
           てっぽうやらミサイルやらつかわんの。
          ほいじゃけえ どがーな りゆうがあろうとも
           せんそうはぜったいにこれからはやらんということを
           ちこうたんです。

          いまいうたようなことをまもるために
           ぐんたいやぶきはいっさいもたん
          りくぐんじゃの かいぐんじゃの くうぐんはもちろんのこと
           ピカじゃのサリンじゃことの せんとうき ミサイル
          わたしらのくらしにゃー、そがあーなもなー、ようはないんですけー

          それから わかいしゅうを むりむり
          あかがみでひっぱっていく ちょうへいせいどなんかも
           とんでもにゃーことじゃ。
          ぐんびをもっとらにゃー せんそうはできんじゃけー
           へいたいさんもいらんじゃろう。

          それから もうひとつ わたしらのせいふが
           せんそうをやるいうけんりもぜったいに みとみゃあせん。
          なーあんたら―これがだい九じょうの
           せんそうほうきいうことなんよ。
          1995年8月12日
                           広島弁訳 大原 穣子

       


リーデイングのあと
みんなで広島焼きのお店に
いろいろあって悩みました

お昼から史跡めぐり



★1
★2
★3
★4
★5
さくら隊殉難碑
爆心地モニュメント
原爆ドーム
平和公園
平和祈念資料館

まず最初は爆心地モニュメント



島外科内科はかつて1933年に島病院として
当初から外科として開業していました。
その後、広島市に原子爆弾が投下された際、
当院の南西側の上空約600mで原子爆弾が炸裂した事が判明し、
同所が爆心地とされ
当院の横を通る道路には爆心地であることを示す
モニュメントが置かれています。
島外科内科のHPより



原民樹(はらたみき)

広島市生まれの詩人・小説家
千葉から広島の生家に疎開して被爆
被爆体験をつづつた「夏の花」など・・・
















相生橋



鈴木三重吉 赤い鳥




原爆瓦




動員学徒慰霊塔



原爆の子の像




原爆詩人 峠三吉の碑




原爆死没者慰霊碑




嵐の中の母子像
建立の目的:核兵器廃絶への限りない努力を呼びかける。  
形状:右手に乳飲み子を抱え、左手に幼児を背負うとしながら
前かがみ姿勢で生き抜こうとする母の姿を表す。
建立年月日:昭和35年(1960年)8月5日
設計者:本郷 新
建立者:広島市地域女性団体連絡協議会
(旧)広島市婦人会連合




平和祈念館




上空約580mに浮かぶ熱球
手前は比治山

あの日、あの朝、広島の上空五百八十メートルのところで
原子爆弾ちゅうもんが爆発しよったのは知っちょろうが。
爆発から一秒あとの火の玉の温度は摂氏1万2千度じゃ。
やい、1万2千度ちゅうのがどげー温度かわかっとんのか。
あの太陽の中心温度が6千度じゃけえ
あのとき
ひろしまの上空五百八十メートルのところに
太陽が、ペカーッ、ペカーッ
二つ浮いとったわけじゃ
頭のすぐ上に太陽が二つ
1秒から2秒のあいだ並んで出ょったけえ
地面の上の者は人間も鳥も
虫も魚も建物も石燈籠も
一瞬のうちに溶けてしもうた。
根こそぎ火泡を吹いて溶けてしもうた。
屋根の瓦も溶けてしもうた。
しかもそこへ爆風が来よった。
秒速350メートル
音より速い爆風
溶けとった瓦はその爆風に吹きつけられて
いっせいに毛羽立って
そのあと冷えたけえ
こげえ霜柱のような棘がギザギザと立ちよった。
瓦はいまや大根の下ろし金
いや、生け花道具の剣山
このおとろしいギザギザで
おんっどりゃ肝臓を根こそぎ摺りおろしたるわい
ゴシゴシゴシ、ゴシゴシゴシ・・・・

「父と暮せば」 一寸法師より




焦土に残された物




焦土に残された仏像



さくら隊原爆殉難碑
皆で焼香







丸山定夫、高山象三、園井恵子、仲みどり、森下彰子
羽原京子、高木つや子、笠絢子、小室喜代



ここからタクシーで比治山に



旧ABCC

「原爆の人体への影響を長期的に調べるため
1947年にABCC(原爆障害調査委員会)が広島・長崎両市に設けられました。
1951年、市内比治山の高台に移り本格的な施設が整いましたが
市民からは『研究、調査するだけで治療行為をしない』と
その活動を批判する声もありました。
1975年に日米対等で管理・運営されることになり
(財)放射線影響研究所(RERF)として改組されました。」
原爆資料館より




展望台よりのぞむ安芸小富士(似島)

1945(昭和20)年8月6日 午前8時15分 
広島に世界で初めて原子爆弾が投下されました。
原爆で負傷した多くの人々が似島の第二検疫所へ助けを求めてやってきました。
処置をされた人は原爆投下後20日間で
約1万人とも言われています。
しかし、懸命の治療のかいもなく
ほとんどの方がこの地(似島)で亡くなられ、葬られました。
戦後、発掘調査により多くの遺骨が収集されました。
広島市似島臨海少年自然の家HPより




文芸の碑




原爆ドーム方面

この後広島駅に
駅中の居酒屋で市民劇場の方々と合流
芝居のこと鑑賞運動のこと
楽しいひと時を過ごすことが出来ました。





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