白亜城事件
    
2016年10月23日     
山と橋を渡る  Masao's Photo Gallery



「九条の会.ひがしなだ」の史跡戦跡巡りで
旧制甲南高校の白亜城事件を知りました。
戦前1933(昭和8年)の京大・瀧川事件を契機に
学問の自由・思想の取り締まりが始まり
旧制甲南高校でも9名の生徒が検挙され
そのうち1名が起訴されるという
「白亜城事件」

それまで全く知りませんでした
甲南大学は近所の大学で
最近知り合いになった方々もいらしゃるし
調べて見たら
甲南山岳部・山岳会の歴史の中で
「昭和9年、治安維持法で違反容疑で山岳部の主力部員多数が検挙され
部活動は一時停止された(白亜城事件)」と書かれていました。

白亜城事件とは
当時の社会主義研究会の機関誌が「白亜城」で
検挙された9名は社会主義研究会のメンバーだったと
wikiwandoに書かれています。
社会主義研究会のメンバーの多くが山岳部のメンバーだったのでしょう
荒地山には甲南山岳会のプレートがあります。
そして甲南(岡本)バットレスは
旧甲南高校山岳部が練習に励んだところです。




甲南バットレス

「白亜城事件」のこと調べていたら
起訴された9名のうちで検挙された1名が
俳優座の故永井智雄さんだと知り驚きました。

永井智雄(本名:飯沼 修(いいぬま おさむ))

永井さんも山岳部だったようです
山岳部の部報にF. Smythの ”The Kamet Expedition” の翻訳を発表

昔のNHKドラマ「事件記者」で有名でしたが・・・
芝居では「守銭奴」「どん底」などでお会いしました
昔、三宮に「弁慶」という焼き鳥屋があって
立ち寄ったらカウンターで永井さんが一人で飲んで居られました
「永井さん!」
と声をかけたら一緒に飲もうと・・・
感激でした

そんなこともあり
甲南大学まで一人史跡めぐりです




甲南大学




1号館

白亜城とは旧制甲南高校の本館が白亜の城のように見えたこと
現在の1号館(写真)は旧本館を模しているそうです。

1号館に甲南学園史資料室があり旧甲南高校の歴史が紹介されています。




1号館の受付で案内していただきました




二楽荘に関する写真もありました
記事の内容は
右手の山麓は岡本梅林のあったところで中央のケーブルカーが二楽荘に通じ
山中に散在する建物は武庫中学校へ日本各地から集められた生徒たちの
宿舎などの諸施設だったのである。山麓の細長い建物には教室があって
これを解体した古材が甲南中学の仮校舎を建てるのに使用された。




二楽荘とケーブルカー




初期の甲南生はしばしば二楽荘に集まり
思い出多い場所だったようです。

甲南学園創立に多大な援助をした久原房之介は
西本願寺の法主大谷光瑞から買い取った二楽荘を
不況時に手放すことになり
学園への寄贈は実現しなかった 





資料室の一角に本棚があり




甲南学園の80年
この中に白亜城事件のことが書かれていました




15P 日本軍国時代に入る 甲南学園80年 から
 昭和8(1933)年4月京都帝国大学法学部瀧川幸辰教授がその自由主義的刑法学説によって文部当局から辞職を強要されるといういわゆる瀧川事件が起こった。京大法学部はこぞってこれに反対し大学自治を守るために全国多数の大学がこれに呼応したが、京大における甲南高校卒業生もこの運動に重要な役割を演じたのである。事件後、印刷物の検閲がきびしくなった中で「甲南高等学校同窓会誌」は京大事件特集号を発行し、甲南卒業生の活躍を報告した。
 このころから思想の取り締まりが強化され、昭和9(1934)年には甲南高校生9人が、マルキストの嫌疑を受けて検挙された。驚いた平生校長は、自ら警察や検事局に出願して早期釈放に成功したが、それらの生徒には説論を加えたのみで、登校を許した。この寛大な措置には、学内でも異論が出たが、やがてそれは称賛に変わったという。

それでは俳優永井智雄さんのこと
正門近くに卒業生の記念碑があるそうです






正門(南門)の左手奥の広場にありました




写真が白亜城なんでしょうか




西側に第1回(大正15年)〜第10回(昭和10年)の名簿があり






第9期に永井智雄(飯沼修)の名前がありました
永井さんは自主退学扱いなのに・・・
さすがリベラルな学園です
10期に演出家の下村正夫の名もありました。
彼もまた捕まった9名の仲間です。
永井さんの「レポート俳優」の中に出てきます。




永井智雄 「レポート俳優」より
 芝居の仕事に入る前、僕は何をしていただろうか――「板つき(芝居の幕があく状態)」前の年月について考えてみた。まず浮かぶのは非合法(当時の民主運動はみんな非合法だった9の学生運動と、その結果の情景である・・・
 神戸の地下鉄の入口でつかまった。痩せていて、はしっこかったので逃亡には自信があったが駄目だった。自動車に押し込まれて、レポの紙を呑みこむあたりから、僕のヒロイズムはたかまり、読んだり聞いたりした拷問の場面がいよいよ身近に迫ったぞと覚悟した。他の仲間がどんどんやられてしまって、僕はもぐらざるを得なくなり、大した事は出来ないくせに、格だけが上っていたからである。多数派と少数派に分かれて、非合法活動は混乱していた。高等学校の三年生の時で、同級生に演出家の下村正夫がいた。彼は古典音楽と落語が好きであった――。
 拷問は痛かった。鉛筆で指をはさまれるあたりは、「犬!下司!馬鹿!」等とどなりつづけて大いに昂然たらんとしたが(ひどく痛かったので何かどならざるを得なかったのである。)、さかさまにつるされてなぐられてからはとうとう気絶してしまった。全くあの特高とか検事とかいう連中は下劣で狡い。松川事件で、被告たちがはじめに言った事と後で言った事とが違うというのは当然あり得ることである。自分たちに都合よく「白状」させる事は、あの連中にとってはたやすいことなのだから・・・・。(”板つき¢Oの年月)より

永井智雄 「僕の俳優手帖」 より
 旧制高校の最後の年、卒業を目前にして、僕は治安維持法違反でつかまり、未決送りが決まった。その日、母が折詰にしたざるそばを持って警察に面会に来た。そばを僕の前においた母の手がひどくやせてしまったのにぼくはショックを受けた。うす青い色をしたそばは、もうすっかりのびてしまってメリケン粉のかたまりのみたいになっていた――その上にそばツユをふりかけ、割箸でほぐしながら、ぼくはガツガツと食べた。決してまずいと思わなかった。下町ッ子の母は目に涙をためて――「転向しておくれよ、おまえ」と言った。そばにいた特高刑事がこの時とばかり――「みろ、おふくろさんも心配しとじゃないか「とちょっとやわらか調子でいう。ぼくはそばを食うのを途中でやめ、椅子から立ち上がると――「馬鹿野郎!」と刑事にどなった。そしてその大声に自分でびっくりした。(中略)それにしてもぼくが苦しい時に、下町ッ子の母がぼくに声をかけ、やさしくぼくを見つめ、そして何故か目の前にそばがある。受験に失敗した時もそうだった。未決送りの時もそうだった――きっとそんなパターンが、ぼくのそば好きに、いよいよ拍車をかけたのかなと思う・・・(下町ッ子・年越しそば)より
検挙後、永井さん以外8名は復学したが
永井は未決囚として神戸・大阪拘置所に2年の拘禁後、釈放され
同志社大学へ入学。
在学中、「エラン・ヴィタール小劇場」の一員として演劇活動に
同大卒業後、兵役を経て1944年に瑞穂劇団に参加
1946年劇団俳優座に入団
俳優活動と共に
安保体制打破新劇人会議書記長
全国革新懇世話人を務められ
1991年6月17日77歳で亡くなれました。

なお旧制甲南高校卒業生は各界で活躍されています。
ヤマハ中興の祖川上源一氏も1929年2月 社会主義運動を行い同校を中退

著名な卒業生
鈴木恭二(1928年) - 味の素社長
黒川久(1929年) - 三菱油化社長
竹中錬一(1930年) - 竹中工務店社長
小野達郎(1930年) - 日本製鋼所社長
伊藤英吉(1931年) - 伊藤忠商事会長
塩野孝太郎(1931年) - 塩野義製薬社長
武智鉄二(1932年) - 演劇評論家・演出家
水野健次郎(1933年) - 美津濃社長
林治一(1933年) - 経済学者、神戸大学名誉教授
内田義彦(1934年) - 経済学者
高安国世(1934年) - ドイツ文学者、歌人
高橋孝吉(1935年) - 神戸製鋼所社長
武内俊夫(1937年) - トーメン社長
大林芳郎(1938年) - 大林組社長
村上武雄(1940年) - 東京ガス社長
織田敏次(1941年) - 東京大学名誉教授
森下泰(1941年) - 森下仁丹社長、元参議院議員
岡田節人(1947年) - 生物学者。京都大学名誉教授。
榎原猛(1947年) - 憲法学者。大阪大学名誉教授。
中西香爾 - 化学者。コロンビア大学名誉教授
貴志康一(中退) - 音楽家


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