会下山遺跡から高座の滝
    
2016年11月4日     
山と橋を渡る  Masao's Photo Gallery


来週から忙しくなるので
今日はのんびり過ごします
久々に芦屋三条の会下山遺跡に行ってみる事にしました




14:08 森稲荷

出発はお昼から
高橋沿いに北に歩くと森稲荷
たくさんお願いをして境内を抜けると山麓リボンの道




このまま高橋川を北上すれば最短コースかも
東に東にへと歩いていたら高座橋に着いてしまいました




14:33 高座橋

振り返ると山手中学への道が・・・



こんな看板があり会下山に行くには山手中学から一旦下る?・・
いや
そのまま西に進んで




11:35 山手中学校門前

校門の左に小さな道が見えます




正解です
この路地には会下山遺跡の案内板が出ていました




山手中学のテニスグランドを横目に
通り抜けると大きな道
少し北上すると会下山遺跡の標識柱がみえました。




14:42 会下山遺跡入口




こんな坂道を登るtと




14:50 会下山遺跡に到着




2000年前弥生時代の遺跡です




高床式の建物が見えます




住居跡はたくさんありますが
建物はJ地区の高倉倉庫だけでした
4本柱には「ネズミ返し」と呼ばれる平板があり
集落の共同倉だったと




昭和63年に復元され
今年3月に屋根はふき替えられたそうです
屋根材はススキ

この辺りは稲作は無理?
なんでこんな高台に住んだのか疑問に思います




住居跡・墓地・廃棄場・祭祀場




大きなアベマキの木



たくさんのアベマキの実
実はあく抜きをしたら食べられるそうですね


折角ですから最上部にあるS祭祀場に




S祭祀場

茅渟の海が一望できます




遠くに紀伊半島




西は東神戸大橋

昔工事中の主塔に登りました
主塔高さ146.5
この地は海抜200m




ススキの穂が揺れて~揺れ揺れ

ススキの穂をみていたら
かっての住民は稲作ではなく
縄文時代と同じような狩猟生活をしていたのでは・・・

出土品には
つぼ・かめ・高つきなどの弥生式土器
石矢じり・石おの・石おもり・皮はぎ・石きり
銅の矢じり・ガラス小玉・鉄おの・鉄のみ・小刀・火うち石

出土品から「三翼鏃(さんよくぞく)」という矢じりが出たことから
ここは出城みたいなものではなかった
そんな説もあるようです




三翼鏃は弓矢の先に付けられ武器として使われたと・・・
いや
そうではないかもしれません




縄文時代は戦いのなかった時代でした
それが
弥生時代に入ると稲作が伝わり
境界線をめぐる縄張り争いと
冨の蓄積が始まります
それは部族間の争いとなり
勝利した部族と敗れた部族との階級支配が始まった
格差社会の始まりです

こんなこと書きながら
ふと思いだした今年三月にみた芝居



MONOの「裸に勾玉」を思い出しました

狗奴(くな)の国と邪馬台国との戦さから逃れ
愉快に暮らしている弥生時代の三兄弟の物語
決して戦いはしない
逃げるだけ

会下山の弥生人達も争いを逃れて高地に住んだのかもしれません
出土品から
様々な部族と取引していたように思います
中国では武器として使われた三翼鏃

日本で発見されたものは極めて数少なく

島根大学法文学部社会文化学科の大日方克己氏は
「日本古代における弩と弩師」の中で
弥生中〜後期の遺跡から発見されている銅鏃であり
弩で使用される矢の鏃とみなされている。
多くは漢式の鏃で
宝器として単体で受容された可能性が高く
最終的には副葬品として埋納されたと考えられる

と推測されています



もしくは
アフリカはタンザニアの奥地にハザ族のように
狩猟に用いたのかもしれません

現代でも戦いを避け平和に暮らしている
狩猟民族がいるそうです




『137億年の物語』 」p129-130より
「現代の狩猟採集民の生活」より一度も争いがなかった社会

 アフリカはタンザニアの奥地にハザ族という狩猟採集民がいる。
ごく最近まで彼らは
森の中で野生動物を狩り
果物や野いちごを採集し
移動しながら豊かな生活を送っていた。
しかしその人口は2006年までに
わずか2000人に減ってしまった。
侵入してくる農民や都市化の波に押されて
低木が生えるだけの狭い土地に追いやられてしまったからだ。
その歴史において一度も争ったことのないハザ族は
侵略してきた農民や町の住民と戦おうとせず
豊かな狩り場を手放し
いばらが生い茂る小さな森に引きこもってしまった。
今はそこで現代社会から身を隠すようにして暮らしている。
 ハザ族は、個人では何も所有せず
すべてを共有する。
最近こんな話が報告された。
めったにないことだが
ハザ族のひとりの男が外部の人間にガイドとして雇われ
観光客を奥地に案内した。
ガイド料を受け取るときになると
部族の全員が出てきて
そのお金を分けあったそうだ。





戦を好まなかった縄文人達は北に南に追いやられ
ひっそりと生きてきました
会下山遺跡に住んでいた住民は
そんな人たちだったのかもしれません。




深まる秋の気配を感じる会下山遺跡でした


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