『肝っ玉おっ母とその子供たち』  劇団どろ創立50周年記念公演

       ブレヒト詩集 あとから生まれてくるものたちへ 

観劇記 あまご 
2015年10月11日 
 
          作:ベルトルト・ブレヒト 演出:合田幸平  神戸アートビレッジセンター
                              


 神戸の地元劇団どろが創立50周年を記念して、ブレヒトの大作「肝っ玉おっ母とその子供たちを上演すると聞き、驚き、大丈夫かな〜と心配しながら見に行きました。
 ところが、見事、予想を裏切ってくれましたね(^!^)。肝っ玉おっ母アンナを演じた濱崎佳代子さんは関西二期会のソプラノ歌手、数多くのオペラに出演されているとのこと、なるほど歌が上手なわけです。歌だけでなく動きも表情もとてもよかったです。もう一人の主役、アンナの娘・唖のカトリンは立見さん、言葉で表現できないもどかしさを身体で懸命に表現してました。ブレヒトの芝居は感情移入が起きないように創られるていると言われますが、カトリンの最後の場面、太鼓を鳴らして、村人に軍隊が来ていることを知らせる場面では涙が出てきました。ブレヒトの芝居のなかにはたくさんポエムがちりばめられています。詩は感情に訴えます。ブレヒトの作品に涙することも自然なことだと私は思いました。そして、神父の一貫さん、本来の宗教戦争の主役であるはずなのに、利用され、翻弄され、捨てられても生きてゆく哀れさが出ていました。どんな役でもこなせる上手い役者さん、感心しました。今野さんや北さん新井君、中野渡君もそれぞれの味が出ていて、いいアンサンブルでした。幌馬車もよかったです。
 
 肝っ玉は今度で4回目の観劇となります。はじめての舞台は私が19才の時、若かった頃観た芝居はいつまでも湧き出る源泉のような想いがあります。その時のアンナは岸輝子さん、2度目は中村たつさん、そして栗原小巻さんのアンナもありました。それ時々の時代が反映されていて、感じることも思うことも違います。70年代は経済成長の時代、社会に対して生活に対して、理想がありました。それから成長が止まり、ベスト経済書1位となった水野和夫さんの著書「資本主義の終焉と歴史の危機」という時と呼ばれるような時代を迎え、見渡せば、周りはブレヒトの生きた時代と同じような空気が漂い始めているように感じます。
 そんな想いにかられながら、「劇団どろ」は若い人達と共に頑張っていると思いました。



今年の夏
『戦争とは・・・2015』  朗読 俳優座特別公演
で清水良英さんが
「あとから生まれてくる者たちに」を朗読されました。
この詩を捜したのですが手元になく
多分訳が違っているかもしれませんが
と前置きして
手元の詩集から
『のちの時代のひとびとに』という詩をのせました。

最近 「ブレヒト 詩とソング」 市川明 著 から
「あとから生まれてくる者たちに」を見つけました。



あとから生まれれてくるものたちへ
  1
本当に僕は暗い時代に生きている!
無邪気なことばは愚かに響く。つややかな額は
何も感じないしるし。笑っている人は
恐ろしい知らせを
まだ受け取っていないだけだ。

なんという時代だ。今は
木々について語ることは犯罪に等しい
それは多くの悪行に口を閉ざすことだから!
平然と街路を横切る人は
苦境にあえぐ友人と
心を通わすことはないだろう。

確かに僕はまだ飯には不自由していない。
でも嘘じゃない。それはただの偶然だ。仕事を見る限り
腹いっぱい食べる資格なんて僕には何一つない
たまたま運がよかっただけだ。(運が尽きればおしまいだ。)

みんなから言われる、飲んで食え!ものがあるのを喜べ!と
でもどうして食べたり飲んだりできるだろう、今
食べているものが飢えた人から奪い取ったもので、今
飲んでいる水が喉の渇いた人には届かないというのに。
それでも僕は食べ、飲む。
できれば賢く生きたいと思う
昔の本に書かれている。賢明さとは何かが
世の中の争いから身を遠ざけ、短いときを
安穏と生きること
暴力と無縁でいること
悪には善をもって報いること
欲望は満たすものでなく忘れるもの
これが賢い生き方だという。
僕にはどれ一つできない。
本当に僕は暗い時代に生きている!

  2
混乱の時代に僕は都会に出てきた
飢えが広がる時代に。
暴動の時代に僕は世間に飛び出た
人々とともに反乱を起こした。
こうして僕のときが流れた
僕に与えられた地上のときが。

戦闘のあいまにものを食べ
人殺しに混じって眠り
何も考えず恋にふけり
自然を見てはいらだった。
こうして僕のときが流れた
僕に与えられた地上のときが。

僕の時代、行く手は泥沼へと続く
言葉が災いして、命の危険にさらされた
できたことはほんのわずか。でも支配者どもの
居心地を少しは悪くさせたろう。
こうして僕のときが流れた
僕に与えられた地上のときが。

力は弱く。目的地も
はるか遠くだった。
はっきり見えていたが、
僕には行けそうにない。
こうして僕のときが流れた
僕に与えられた地上のときが。

  3
僕らが沈んでゆく大波から
浮かび上がってくるだろう君たちよ、
思え
僕らの弱さを語るとき
君たちが逃れ出た
暗黒の時代のことも。

事実僕らは靴よりも頻繁に国をかえて
絶望しながら、階級の闘いをくぐり抜けてきたのだ
不正のみがあって、怒りが影を潜めた時代に。

それでも僕らは知っている
下劣なものに対する憎しみですら
顔を歪めることを。
不正に対する怒りですら
声を汚すことを。ああ、僕ら
友愛の地を作ろうとした僕らは
自分では友愛を示せなかった。

でも人と人とが手を差し伸べあう
時代が訪れたとき、君たちよ
思え、僕らのことを
広い心で   (GBA12.85ff.)


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