『野の涯』 一人芝居
Masao'sホーム  
観劇記 あまご 
2018年6月03日 
劇団どろの芝居小屋 
作:広渡常敏 月曜会 岩井史博 

1984年(明治17年)
埼玉県秩父郡の農民が政府に対して負債の延納
雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件
その秩父事件の首謀者の一人
井上伝蔵の事件後の半生を描いた一人芝居です。
語り部は広島「月曜会」の岩井史博さん
「劇団どろ」から案内が届き
どんな芝居なのかもよくわからないまま
「月曜会」と聞いて
懐かしい気持だけでアトリエに向かいました。
広島の劇団「月曜会」
原爆詩人・峠三吉描いた『河』の作者で「月曜会」の設立者&
座付作家の故土屋清さんがまず脳裏によぎります。
働き始めた頃でした
「月曜会」にいた学生時代の友人が大阪にやって来て
土砂降りの嵐の夜
一緒に関西芸術座の「河」を見たような記憶があります。
西リ演(西日本リアリズム演劇連盟)の総会だったか
合同演劇祭だったか
記憶は薄れてしまいましたが
そんな思い出がよぎりました。

劇団どろのアトリエでの一人芝居
井上伝蔵を演じる岩井史博さんの
淡々とした語りと動きは
この芝居・伝蔵に対する思いが私たちにしっかり伝わりました。
もちろん英雄的な革命伝説ではない
むしろ敗者の物語です。
当日のパンフレットに《ものがたり》がありましたので紹介します。

革命党は蜂起して10日間で解体、敗北。
首謀者が次々と検挙され死刑が実行されてゆくなかで
井上伝蔵、飯塚森蔵、井上善作は死刑の国事犯に問われながら
灯台もと暗し
秩父の土蔵に二年間も隠れ住み
その後北海道に逃げのびたのだった。


日本版(ジャンバルジャン)であったり
逆に北海道から逃げた『飢餓海峡』の樽見京一郎と重なります。

伝蔵は夜な夜な森蔵を想う。
土蔵の暮らしから自首して出ようとした自分に対して
「伝蔵、くだらんよ、おれは生きる、生きのびる。
生きてしなけりゃならんことがある。」と言っていた森蔵。
アイヌコタンのシラヌカで自由民権が試されると言って
水のように入っていったまま行方知れずの森蔵。
伝蔵は、「大日本」が秩父に対して行ったのと同じ弾圧が
この北海道の地の果てで人知れず
アイヌや囚人に対しても行われたことを知る。
「われわれの数は少なくない」と信じられた日はすでに遠い。
秩父で困民党の衆が生命をかけた自由民権の考えが
自由自治元年が、実現される日をこの目で見たい。だが
「大日本」は弱者の上に、さらなる強者となってゆく。
いまや伝蔵は、理解されてたまるかという意地とともに
頑なに生きている。
自分のことはいっさい人に語らず
しかし、野付牛の地の果てから
「大日本」を見据え続けている。




どろのチラシに載っていたあらすじ
本当によく出来ています。
その後の日本がどのように突き進んでいったか
誰がみても明らかなはずですが
ここ数年の日本の動きをみていると
とても不安になります。
芝居が終わった後
岩井さんも今の日本を危惧していると語られました。
日本の自由民権運動といえば板垣退助ですが
彼の場合は権力争いの感があります。
彼の自由とは庶民ではなく政府に反感をもつ士族らの立場から
「士族民権」とも呼ばれています。
秩父事件(明治17年)の少し前にも1881年(明治14年)の秋田事件
1882年(明治15年)の福島事件
1883年(明治16年)の高田事件などが起こり
明治政府は急進的民権家の政府転覆論を口実にして
地域の民権家や民権運動に対する弾圧を行っています。
同じころ
フランスではプロイセンとの普仏戦争の講和に反対したパリ市民が蜂起して
世界最初の労働者政権が誕生します。
よく言われるのは日本の場合
戦前は一揆や労働者争議はあっても
フランスのように政権をとることはなかったから自意識が低いと
しかし
1880年代の日本も世界の動きと同じように民衆の力が
沸き起こっていたことを知りました。
あまり知られてませんが
1868年(明治元年)、隠岐の島では島民が蜂起し
松江藩を追放し
およそ半年間の短い期間でしたけど
島民による自治が行われました。
劇作家の岡部耕大は「隠岐コンミューン」という芝居を上演しています。
井上ひさしさんは
「世の中と歩調を合わせる という生き方は奴隷の生き方である。」
ともっと一人一人が主体的に生きて欲しいと書かれています。
自治について
一人一人の生き方について
ずいぶん考えさせられる芝居でした。

 

ページTOP

Masao'sホーム 観劇記