『山の声』 ある登山者の追憶
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観劇記 あまご 
2019年5月26日 
 
オフイスコットーネプロデュース
大竹野正典没後10周年記念講演 第3弾
作・演出:大竹野正典
プロデューサ:綿貫凛
協力:くじら企画
伊丹アイホール



加藤文太郎
1936年(昭和11年)1月
数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが
猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じる
この芝居は槍ヶ岳で遭難した二人のその日の物語

加藤文太郎
山をこよなく愛し
六甲全縦走の父ともいわれる
超有名な登山家

槍ヶ岳ももう一度行ってみたいし
(もう無理か)
六甲を愛する私にはこの芝居辛いかな〜

でも
芝居見てよかった
山を愛し
最後まで働き続けた
大竹野さんが書いた最後の戯曲
気持が通じるものがあったと思います
私は今回の企画を通じて
大竹野さんを初めて知り
加藤文太郎さんの山暦を知り
当時の登山というものを知りました

当時の登山(昭和の始めの頃)は
裕福な人たちが案内人を付けて登る登山
または
学生たちがグループで登る登山だったそうです
山に登る学生たちは豊かな子弟だったと思います
彼等は十分な装備でもって
ロッククライミング等の基礎的な訓練を受けていました
片や文太郎はありあわせな服装で
高価な登山靴でなく地下足袋を履いて登る
異色な存在だったそうです
劇中
私はRCCの加藤文太郎です
という台詞がなんどか出ましたが
RCCは日本初のロッククライミングを目的とする
藤木九三が中心になって発足した神戸の山岳会
文太郎は足が速いため仲間と一緒に歩くことは少なく
ロッククライミングの技術は学んでいなかったようです
ですから
山登りの途中
東大生に岩山でアシストしてもらったり
ロッククライミングの経験のある仲間:吉田富久と連れ立って
最後の
槍ヶ岳に登ったのです

いまでこそ山登りは働くもの
サラリーマンたちの楽しみですが
この頃の若いサラリーマンはそれどころでないようで
私のような年寄りが多くなりましたけど

今はお金持ちのスポーツではありません
文太郎は苦学して三菱の製図工から技師に
吉田は国鉄高取工場勤務
二人とも労働者です
六甲の登山が盛んになったのも
グルームさん達だけでなく
山歩きが大衆のものになったのも
二人のおかげかもしれません

これから山歩きをすると
二人のこと思い出してしまうかもしれませんが
私も若くないですから
危険なとこは避けて
これからは
のんびり山歩きに芝居を
楽しみたいと思います

配役
登山者1 加藤文太郎 戎屋海老
登山者2 吉田富久 村尾オサム
 

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