『戦争とは・・・2015』  朗読 俳優座特別公演

観劇記 あまご 
2015年7月31日 
 
          構成・演出:菅田華絵 

                   
 先月の始め、有馬理恵さんから俳優座の特別公演「朗読 戦争とは・・2015」の案内が届き、今、この時期に、是非聞いておかなくては・・との思いから、行って来ました。公演はA/B/Cの3部に分かれていて、私はB公演に、「最初の断罪・・・」の朗読を聞きながら、戦争に行けば人が変わる。侵略された人達は勿論、侵略した者達にも大きな痛みが残る。犠牲になるのは普通の人々なのだと、改めて思いました。中さんの「元自衛官の演説」はとても分かりやすく共感を覚えました。朗読会が全国に拡がればいいですね。



 朗読の構成です。
 「最初の断罪-女性国際戦犯法廷の記録-」
           神山寛/阿部百合子/高山真樹/檜よしえ/有馬理恵
 「長崎の鐘はほほえむ〜残された兄弟の記録〜」 遠藤剛
 「とうろうながし」 檜よしえ
 「園長からの伝言」 岩崎加根子
 「元自衛官の演説」 中寛三
 「子守うた」「あとから生まれてくる者たちに」 清水良英




 ブレヒト作「あとから生まれてくるものたち」はとても懐かしく、本棚をさがすと、世界現代詩詩集Uブレヒト詩集(訳:野村修)では「のちの時代のひとびとに」がありました。タイトルも詩の言葉も違うのですが、多分、訳者が違うからではないかと思います。長くなりますが、口ずさんでみました。

のちの時代のひとびとに

そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い。
無邪気なことばは間が抜ける。皺をよせぬひたいは
感受性欠乏のしるし。笑えるものは
おそろしい事態を
まだ聞いていない者だけだ。

なんという時代―この時代にあっては
庭がどうの、など言っているのは、ほとんど犯罪に類する。
なぜなら、それが無数の非行について沈黙している!
平穏に道を歩みゆく者は
苦境にある友人たちと
すでに無縁の存在ではなかろうか?

たしかに、どうやらまだぼくは喰えている。
でも、嘘じゃない、それはただの偶然だ。ぼくのしごとは
どれひとつ、ぼくに飽食をゆるすようなものじゃない。
なんとかなっているいるなら偶然だ。
ひとはいう、飲んで喰え、喰えりゃ結構だ、と
だがどうして飲み喰いができるか、もしぼくの
喰うものは、飢えているひとから掠めたもので
飲む水は、かわいたひとの手の届かぬものだとしたら?
そのくせぼくは喰い、ぼくは飲む。
賢明でありたいと、と思わぬこともない。
むかしの本には書いてある。賢明な生きかたが。
たとえば、世俗の争いをはなれてみじかい生を
平穏に送ること
権力と縁を結ばぬこと
悪には善でむくいること
欲望はみたそうと思わず忘れること
が、賢明なのだとか。
どれひとつ、ぼくにはできぬ。
そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い。


ぼくが都市に来たのは混乱の時代
飢餓の季節。
ぼくがひとびとに加わったのは暴動の時代
ぼくは叛逆した、かれらとともに、
こうしてぼくの時がながれた
ぼくにあたえられた時、地上のとき。
戦闘のあいまに食事し
ひとごろしにまじって眠った。
愛を育てもしたが、それに専念する余裕もなく、
自然を見ればいらだった。
こうしてぼくの時はながれた
ぼくにあたえられた時、地上の時。

ぼくの時代、行くてはいずこも沼だった。
ことばのためにぼくは屠殺屋どもにつけ狙われた。
無力のぼくだった。しかし支配者どもには
ぼくがいるのが少し目ざわりだったろう。
ぼくにあたえられた時、地上の時

ぼくらのちからは乏しかった。目的地は
まだ遠かった。
でもはっきり見えていた、たとえぼく自身は
行き着けそうもないとしても
こうしてぼくの時がながれた
ぼくにあたえられた時、地上の時。


きみたち、ぼくが沈没し去る潮流から
いつかうかびあがってくるきみたち。
思え
ぼくらの弱さを言うときに
この時代の暗さをも、
きみらの免れた暗さをも。
事実ぼくらは、靴をよりもしばしば土地をはきかえて
絶望的に、階級間の戦いをくぐっていったのだ、
不正のみ行われ、反抗が影を没していたときに。
とはいえ、無論ぼくらはしっている。
憎悪は、下劣に対する憎悪すら
顔をゆがめることを、
憤怒は、不正に対する憤怒すら
声をきたなくすることを。ああ、ぼくたちは
友愛にのみ生きることは不可能だった。
だがきみたち、いつの日かついに
ひととひとがみな手をさしのべあうときに
思え、ぼくたちを
ひろいこころで。
 (1938)


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